夜間瀬村と山論(水論)
 最初の争いは寛文7年(1667)〜延宝年代(1673)で、大持坂、中ノ橋の帰属をめぐる小争い
で、延宝7年(1679)に夜間瀬村と沓野村の山論絵図により、大持坂が夜間瀬村に記されている
ことで、上木島村は、納得できず訴訟に踏み切る。その間大持坂へ新道を造ったり橋を掛け、入会
山へ新道を造ったとか、田肥、薪等を馬数百頭で運び出したこと、更に刃物等を振るい馬の鞍を弛
める等の大乱闘となる。今でも言われる喧嘩坂、双方の言い分は相手方が仕掛けたと言い張る。
元禄5年(1692)に上木島村より訴訟を起こし敗訴してしまう。その間検使による実地検分もなさ
れ、そして三沢山、寺屋敷、大小屋の三山は、木島平八千石余りの水源地であると言うことで水源
確保のため、木島平18ヶ村相談の上江戸評定所へ訴訟を起こすことに決まり、長坂織部殿に重任
をお願いする。双方立会証文絵図を作り提訴し検使により照合するが結果は元禄9年(1696) 6月、
証拠不充分で敗訴する。元禄10年(1687)年2月15ヶ村起請證文血判書により決意を新たにし、
訴訟準備をするため、山奥に籠り証拠物件を確かめ、巣鷹場を探し当てる間、数十人の夜間瀬村人
の夜襲にも打ち勝ち帰宅、証拠を固め、西町の祢津惣右エ門氏、山口の高木善左エ門氏を従え、途
中妙義山に参籠、分霊を勧請江戸評定所に出廷、巣鷹の木が決めてとなり元禄11年(1698)5月
25日に判定勝訴となる。夜間瀬村は証拠書類の隠滅をし再び訴訟を起こさんと企て、長坂家を3回
も放火するが重要書類は安全に保管され、樽川の水利を確保することができた。
土橋堰
 白沢川を近くに持ちながら水量が不足し、田飲用水確保のため、水源を三沢川およびウラナシ川よ
り取水を計画し、その『為替水』として雑魚川支流大沢川より新堰を立てることで、山水組合の承諾
を得る。明治14年(1881)起工、明治15年(1882)竣工する。
西町堰
 上木島村上原、西原の原野を水田に開削するために、村を挙げて新堰を開き水源を確保す。明治
30年計画、40年(1907)に起工、41年(1908)に竣工す。だが、下流水利に枯渇を招くこと
で、雑魚川支流大沢川より『為替堰』を立て、土橋堰に合流し日向入川に流す。後の昭和6年
(1931)に為替水取水しないことで、計三ヶ村より抗議があり、為替堰開削通水させることで、
昭和8年(1933)に県庁の調停により営林署その他関係機関の手続きを済ませ完成する。
深沢堰水論
 元和9年(1627)に小布施村押羽より移住、深沢村として開発が進むが水利の便が悪く、そこで
水源を須賀川に目を向け、臂出川より引水を計画し、慶安2年(1649)に奉行所に願い出、明暦2
年(1656)に堰の開削に着手するが、樽川水系下流木島平13ヶ村より樽川水源の枯渇に繋がると
猛反対をうけ、深沢村はそこで剣沢、ドブ川の水源を樽川へ流入させる『為替堰』を作ることで妥
結を見る。万治2年(1659)に為替堰の開削に着手し、寛文8年(1668)に完成。
須賀川と深沢村水論
 寛文年代(1661)より引水量で争論が始まり延亨年代(1744)再燃し、川名(倉下川を臂出川と
する)の呼称を変えて大量の水を引き込もう双方で言い争い、取水口の破壊による熾烈な抗争が続
きようやく昭和15年(1940)に300年余続いた水論も終止符を打ち解決する。
昭和22年(1947)に公平に安分できる分水桝が完成する。